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2009年6月 6日 (土曜日)

1Q84 - 村上春樹 (2009)

 愛はうまくいかず、恐怖が顔を出し、歪みつづける世界



 何度か読み返して、なんとなく自分の理解を得る。海辺のカフカ以後、春樹さんの作品は複雑で、いろいろ考えても答えなどない。重~い読後感。一方で、次の作品で何かものすごいものが読めることを期待する。それぐらい引き込まれる物語。読み終えた後でも頭の中でいろいろ考えを巡らせて、精神的によくない(苦笑) そういう私は間違いなく村上春樹ファンなのだが、ねじまき鳥クロニクルには”自分という存在が歴史や人の縁を巡って生きていくのが人生というもの”という言葉にならない答えみたいなものがあり、海辺のカフカ以降は”そういった答え”みたいなものが出せずにいた。



 1Q84では、海辺のカフカ同様、ギリシャ神話のように人間や人生を”超越した登場人物”が登場する。超能力者とか怪人という程度の存在ではない。それは、”理解を超える存在”だ。仮に、著者が意図的にそれを”悪、あるいは悪に関する存在を具象した人物”にすると、本の紹介にもあるとおり、”そうであったかもしれない世界”が存在する。あ~、ややこしい。ファンじゃないとここまで考えないかもしれない。



 だが、私たちの世界を見据えると、闇について考えさせざるを得ない。いつ頃からか、人は肉体とは別に、別の世界が存在していきているのを何となく知り始めている気がするからだ。精神の世界とか、意識の世界とか、心の世界とか、肉体とは別に存在する世界が”大きく”なってきた時代である。人は肉体を離れたところで病み、精神を犯し、肉体をほろぼそうとする。それが社会というシステム(システム自体も肉体になるのかどうかは別として)をもほろぼそうともする。



 1984年は、その頃から日本と日本人に”既にはじまっている”意識破壊、精神破壊のはじまりの年”であるかのように、男女が交差するようで交差しない物語が、歪んだ”1Q84”年の上で著されていく。そこには、その10年後に”起きたのかもしれない”事象を想像させるし、あるいは、10年後に限らず、世界中でも今も昔も”起こりえる事”、あるいは”起きている事”を想像させる。そんなこと想像すると、この物語によくもわからず引き込まれる自分も怖いし、なんだか簡単にいろいろな内容に答えを出してる感じもするネット上の感想も怖い。



 単純に言って、何がが間違ってしまい生じた世界について、いろいろと答えを出すことを物語とか文学として解釈することに怖さがある。後半にでてくるマザとかドウタとかパシヴァとかレシヴァなどがそうだ。謎解きのように楽しむものなのだろうか? まあ、小説とはフィクションであり、エンターテーメントなので、それはそれで良いが、なんだか怖い。思考やシステムにとりつく人ほど、心が弱い方向へとらわれやすいからだ。現在騒がれてしまったインフルエンザの事ひとつだって、人はメディアと情報にまみれて不安を生じやすくなっている。私たちはいったいいつからこうした不安を抱えやすくなったのか? それは、1984年かもしれないし、それは何年でもいいんだけど、いつ頃からか、人々が肉体という生よりも、意識の中の死を大きくしてしまったのだろう。



 物語の中で、いろんな思想が語られるが、果たして私たちはどう汲み取っていいのかわからない。「均衡こそが善」とか「愛さえあれば」とか書いてあるが、やはり答えはない。どちらかといえば、この物語は、愛よりも恐怖についての物語であるように思う。愛がうまくいかなくて、恐怖になってしまった世界。春樹さんは、おそらくそれを意図しているのではないかというのが、私の出した答えだった。やっぱり、それでも恐怖をのりこえて、愛のある世界、、、という視点の物語が読みたい、です。

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